ぼくたちのやっている“人体交響劇”はふつうの演劇とだいぶちがいますので、その焦点の部分を説明します。もう四半世紀前に、ぼくたちは近代演劇の常識からかなりはずれたことを、むしろこどもたちにとっての常識として採用していました。キャラクターのせりふ以外にナレーションを使う。音楽も使う。無生物(たとえば風や雲)なども演じる。登場人物の一人を複数でやってもいい。大道具・小道具は一切使わない。幕も使わない。舞台よりも平土間がいい……。それらはすべて、こどもの条件と要求に合致させるための工夫でしたが、賢治童話をとりあげる前のことで、約十五年の試行錯誤と準備段階がありました。ある確信をもって賢治童話に取り組んでから十二年になります。その間に、ぼくたちはもっと大きな変貌をとげました。
この変化は二つの焦点を持っています。どちらも、グループを三分割したことから発生します。せりふと身体の動きは、時として両立しない側面を持っています。こどもの欲求にしたがって体を躍動させれば、ことばは発語しにくくなりますし、せりふを朗朗とのべるには、体の動きを抑制せねばなりません。そこで言語班と視覚班を切りはなし、視覚班はパントマイムで表現することにしました。しかし、この二班だけではいわば猿まわしと猿のような従属関係ができてしまいます。言語(口)と視覚(目)があれば、つぎは耳じゃないか。というわけで聴覚班ができました。物語からきこえてくる音を、観客の目に見えるように音で表現しようという、“観音”を地でいくような班を作りました。ところが、この聴覚班が物語の表面から音を採ってくると、たとえば風の音は言語班が人間のことばを越境して、シャーフーとかグルグルゴーとか非日常的、非人間的な音を出した方がおもしろいし、風のジェスチュアなら、それは視覚班の役割ではないかという意見が出て、聴覚班はしだいに物語の奥部へ追われていったのです。そうすると、物語の奥部にあるものとはいったい何か。『やまなし』におけるクラムボンのようなものじゃないか。なにかよく分らないが、水妖の幼い者、まあ河童の赤ちゃんみたいなものがじっとドラマの進行を見ていて、自分もさまざまに動く。そんな存在がいると想定して『やまなし』をやってみたら、全員がおもしろい、動きやすい、表現に厚味が出て美しいとなっとくしました。
これが焦点の一つである聴覚班の出発点でした。偉大な造物主ではなく、卑小な第三者ならば、聴覚班の人数だけの第三者がいてもふしぎではありません。賢治は食事のとき魚がうしろからじっと見ているといった。あの魚は、現代の文学論でいう他者ですが、それもどこか恨みがましい単数のthe other ではなく、陽気な複数の亡霊ともいうべきothers の方がしゃれています。聴覚班はむずかしいとみんないいます。アトランティスのオタマジャクシ、踊るアンモン貝、頭のないミミズ。それでも聴覚班の登場によって、表現は一挙にポリフォニックになり前衛化しました。こどもたちは単なる受け手ではなく、原作に透明な万華鏡をモンタージュし、賢治その人と“共同して”創造するよろこびを知ったのです。この聴覚班の導入はさらにふしぎな効果を生みました。賢治思想の難解さの中枢といえる“四次元”のイメェジを、こどもたちはもう水を飲むような自然さで摂取しているとおもいます。とにかく、「みんなは二千年ぐらゐ前には/青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもひ」といった辞句は、「ほら、人体交響劇の聴覚班のことを考えてごらん」といえば、小学一年生でもうなずきます。
二つ目の焦点は、こどもの権力をめぐる問題です。文学の演劇化は活性に富む作業ですから、こどもたちもそれがすきだと一応いえます。しかし、危険なわなもあります。まず配役。ふつうのやり方だと、主役や脇役の差が意識されて陰惨な葛藤がおこりかねません。出しゃばりと引っ込み思案も固定します。つぎに演出をおとながやれば、こどもはおもちゃの兵隊になるし、こどもたちにまかせれば、ボスが牛耳る。こどもはじつに覇権に敏感です。おとなよりも卒直に、権力をねらって暗闘する。また、闘争の場から離脱したい者は意欲を失ってしまう。同じことが教室でも起きている。これを見たおとなは、最近のこどもはおかしいとか、家庭がなっとらんとかいいますが、演劇や授業を進める方法の中に、権力を育てる仕掛けができていることに気づかないのです。演劇のようにダイナミックな表現の場が、またダイナミックに覇者をうみだす場でもあることは、成人の劇団が証明しています。
これを解決するには分割と交代が有効です。言語、視覚、聴覚の三分割に加えて、物語もプロローグからエピローグまで何箇所かで分割し、パートが変るたびに言語、視覚、聴覚の役割を交代する。観客から見ればいささかめまぐるしくとも、演者はすべての立場を経験し、物語にたいする内的なドーム感覚を味わう。そして、どの分野でもボスとしてふるまうことを自分に許さない美意識が育ちます。はじめは年少者の先頭に立ち、最終的には幼い子を前面に押し立てるという経過を、観察しているおとなが評価する。そういう“眼”の存在はとりわけ重要です。
ぼくたちの人体交響劇の観客は、最終的には宮沢賢治その人です。四次元の観客の前で、四次元劇をやるのです。それがこどもたちにどんな効き目をもたらすかを、ぼくは自分の口からいいたくありません。身体性の開放に向かわずして、こんな活動が進展するはずもありませんが、アマノジャクは呪文がきらいです。ただし、冒頭の戸隠合宿の終りに、ぼくは「きみらが四十歳になったとき、自分のまわりにこどもたちを集めて、賢治童話の人体交響劇をやりたいなあとおもう人は立ってごらん」といいました。二百六十一人のうち二百四十五人くらいが立ち、「立たない人がいるのもたいせつなことだよ」とぼくはいいました。
谷川雁 『ひと』太郎次郎社 1993年11月号「ドーム感覚の造型へ」より
