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何が賭けられたのか――『注文の多い料理店』序をめぐって |
じつを言えば、この日付けに私はちいさな心のゆらぎをおぼえます。それはこの日が、私のこの世に生をうけた五日目にあたるからです。いのちにふくまれる調子のよさを奴凧のように泳がせるなら、私はこの未聞の童話集を誕生祝いにもらった赤ん坊だったと考えたくなります。しかし、ずっと前からそんな気でいたわけではありません。それどころか、四十何年前に素通りしたこの「序」を今年になってつくづく読み返してみたというあんばいです。 〈これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです〉という箇所が記憶に残っていました。十六、七歳の私はここを読んで――ふん、この言いまわしはアンデルセンの『絵なき絵本』だて――と思い、そうなるとほかのことはあまり感じなくなってしまう、いわば「注文の多い少年」でしたから、賢治がみずから書いたにちがいないこの本のための広告文に〈イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や、少女アリスが辿つた鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴァン王国の遠い東と考へられる〉という風に、自分の心象世界と他者のイメェジとの近縁関係をさらけだしていることを知りもせず、どちらかと言えば作品よりもだいぶへたなはしがきとみなしてしまったようです。 じょうず・へたをあげつらうなら、この感想は今でもさして変りません。みじかい文章に同じことばがいくつか繰り返されていて、堂々めぐりのような、くどい気がするのです。九篇の名品をわざとぞんざいに扱っているおもむきがあります。しかし今度読んでみて〈ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです〉というところに強く打たれました。 有効か無効かを問われるとすれば、自分はむしろ無効の側に立つ。条理か不条理かを問われるとすれば、自分はむしろ不条理の側に立つ。だがその立場は、自分という主体の選択によるものでなく、〈かしはばやしの青い夕方〉や〈十一月の山の風〉から、すなわち向う側からの侵入にまかせた結果だとしながら、それは主体の放棄ではなく、主体の惑乱であり、その惑乱こそ主体と呼ばれるものの真相であると歌っているかに見えます。 でも私が打たれたのは、半世紀以上も前に少年少女の読物について決定していたこのような態度のするどさ、あたらしさだけではありません。一字も漢字を用いないこの部分が、観念の重なりあい、しのぎあいをみごとに編みあげたひらがなのお経のように見えることです。ここでは、ひらがなは花をつけていない草の茎です。しかし、突きはなしとも微笑とも自信ともつかぬ感情の豊かなたゆたいにおいて、古今の日本語は宮沢賢治を越えることができません。その好例がこの数行であります。 お経ということばを不用意に使った感があるかも知れません。私の貧しい経験からしても、仏典のあの過剰なまでに多様な色彩にちりばめられた執拗なくり返しを、ある精神の文体としてどのように受容するかは、それほどたやすい課題ではありません。むしろ私たちの日常は、その重々しくたたみかけてくる密度から逃げまわり、一分でも長くそれを回避したいという基調を持っています。それが日本人にとって「侵略」を「進出」に変えたい気分をつくりだす。おそらく私たちは、千何百年も仏典の文体につかまらないための鬼ごっこを繰り返しているのです。 では、たとえば漢訳大蔵経の文脈をどのような日本語に表現すれば、因果の鎖りのあきれるほどの長さとその重畳たる複雑さを、息のあがりやすい私たちの心に指さきにしみる谷間の清水のように、しばしとどまらせることができるか。わが国のすぐれた民衆仏教家の悩みのひとつがここにあったことは疑いのない事実でありますが、その成功した例といえども、『平家物語』や『梁塵秘抄』をふくめて、無情迅速といった情緒の単元を訴えるものでしかないと感じられます。 この至難なわざ――とりわけ弱肉強食の世界をみつめて、強者の末路や弱者の救済という応報の論理におちいることをときに避けえなかったにせよ、強者も弱者も無限のかなしみをともに帯びる領域を巨きな笑いのようなものにつつんで見せる幻術――の開示者として、賢治は無効なもの、不条理なものの描写におのが主体の惑乱を賭さなければならなかった。それによってはじめて、渡来してから千数百年ののちに、仏教はインド語でも中国語でもない東洋の一言語の表現形態を得た。上述の数行は、そんな感想を私に抱かせるのです。 それは、無効と不条理をくぐらない限り、一つの言語は一つの思想をその核心において受信することができないという、これからも私たちが死にいたるまで思い知らされつづけるにちがいない苦渋にみちた真実を告げるものではありますが、その事実を知ることよりも、彼がこのようにさっぱりと断言しつつ、あえて立ち向った荷物の大きさをはかることの方が何万倍もむずかしいと思われてきます。 ユーラシア大陸の半ばを横ぎって東進した仏教思想が、はるかな道中のさまざまな花を装おいながら、もはやこれ以上は移ろうべき土のひろがりもないこの島々に定かならぬ形をしたねぐらを見つけ、ひっそりと増殖していく――草の実のはじけるような声を耳にした者は決してすくない数ではありますまい。あちらこちらで朽ちかけている野の仏がそのことを語っています。しかし、私たちの祖先は「神は細部に宿りたまう」とする心性に傾むく者たちでありましたから、満天の星空とじぶんの形而上世界とが同じ意味を語っていると考えることをひかえました。 仏教はこの国で、銀河を眺めるときの一つの見方にとどまりました。銀河を眺める方法のすべてを統合する「彼方の論理」にはなりえませんでした。人間は宇宙の部分であると前提しつつ、その部分の立居振舞いに気をとられてしまった感があります。「人間なんか究極のところどうでもいいや」という一項が加わってはじめて、魂の救済の事業はバランスをみいだす。古今の大思想のぎりぎりのかなめのところを無名の島人たちも心のかたすみで直観していたとは思いますが、それを貸借対照表のような全体図に位置づけて記述することはしませんでした。 いや、真実のところは不可能だったのでしょう。〈わたしたちは……きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます〉。これは清浄な自然は心身の健康のもとだから、そこへ身を寄せなさいということではありません。〈風をたべ〉〈日光をのむ〉ことは、ふつうの飲食よりもはるかに徹底した生理的営みだから、現実の飲食よりも幻想の飲食のほうがもっと切実だと言っているのです。しかし、この国では現実と幻想に区別をつけて食事をとることはあまりなかったのではないでしょうか。飢饉のさなかに人肉をむさぼるという場合ですら、幻想の渦にとりまかれている――自然とのそういう関わり方であったような気がします。〈風をたべ〉〈日光をのむ〉ことが〈できる〉と宣言して、それが意味を持つためには、おそらく時代の一つの相が必要であって、それが明治後半からはじまった社会の特徴でしょう。「めしはめし、花は花」、それなら花をさきに食えという主張が、鋭さを持つにいたったのです。 この主張は、つぎのような構図の出発点になります。〈これらのちひさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません〉。幻想の飲食、愛すべき小さな物語、真実の栄養。この糸をたぐっていけば、そこにこの世の価値を転倒せしめる世界が開示されるだろうという予言が、この序文の終点です。 つまり、いかなる意味においても死滅はありえない。石ころをふくめて、万物は生きている。生きているということは、お互いを食べあっていることであり、それを素直に認めるのが透明な意識だとすれば、その意識の対象となる諸物の生もまた透明なのだ。透明とは光が通過することであり、力がはたらきあうことであり、そのもつれたり解けたりしている力こそが言葉というものの実相であるから、この宇宙は大長篇の物語にほかならず、そこから切りとられた風景もまたちいさな物語なのだ。それを摂取することのほかにどんな栄養がありえよう。人間の言葉、人間の物語――それらはことごとく、この「真言」、すなわち「真実の物語」の反映、すなわち仮象であるが、人間はこの仮象を手がかりにして、「真言」へ向かうことができるのだ。……大ざっぱな解説をすれば、この序文の言いたいことは以上のようなものになりましょうか。 そこには、それから半世紀の思潮をリードしたと自負する傲慢な人間主義への批判があります。しかし、その批判はある楽天性のなかに吸収する形で行なわれています。これは、世間的にはきわめて危険な賭けでありましょう。宇宙に対してどこまでも直接的な関係を求めていこうとするこのような態度は、起きて寝て食ってはたらく人間の日常のものさし、つまり等身大の領域への固執を棄てねばなりませんから、現実界からの復讐をまぬかれないにきまっています。むろんそれは覚悟の前であるとしても、悲しいことに生物の成熟は同類間の矛盾やもつれあいを通らねば達成されないという一面の真実をふくんでいますから、それは同時に精神の成熟という理想をつねに危険にさらしていることを意味します。 成熟の困難という課題と戦うとき、人間が手にしうる武器は、全人類史を通じてもっとも変ることのすくない文化としての人間の幼年期をある常数値とみなして、その未完にして普遍の領域との関係をたしかめつづけるよりほかにありません。なぜ賢治はあえてそれをしなければならなかったか。仏教東漸二千五百年の旅が、この東北縄文の魂ののこされた若いひとしずくにつきあたって終ったからだという以外に、私は適切な表現を知りません。重い重いブラック・ホールのような普遍思想の質量が、たったひとりの若者に最後の運動の一撃と言わんばかりに衝突したのです。これを悲劇とよぶか、栄光とよぶか。〈なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです〉と言わしめる惑乱は、そこから始まっているのでしょう。 しかも、それはまたヨーロッパが日本につきあたった時期でもありました。幼児が成人をふりあおぐ。そのうなじの痛さをこらえきれなかった連中は、なかみのない成熟意識をふり廻して、等身大の領域を拡張することに熱中しました。そこで永遠の未完――文学における永久革命という課題もまた賢治ひとりに負わされました。賢治の初期散文を読めば、じぶんの成熟を前提にふまえたときの彼が、たとえば芥川龍之介、梶井基次郎をしのぐ短篇作家になりえたことは明らかです。だが、芸術と科学と宗教が一体であることを証明せよ、その形式は物語とすると迫られた青年の苦悩を超えるものがあるでしょうか。死にいたるまでひそやかに、さまざまな色のインキで原稿に手を加えつづける彼の背後に、ハムレットもオセロもマクベスも集まって、かれらの読めない文字をじっと見つめている気さえします。 しかし、賭けは個体の存亡にとどまるものではありませんでした。この島国が他者に向うとき、いまもくりかえすサド・マゾ的な蛇踊り。あれはどうすればやめられるのか。ハイカラで土着的な、土着的でハイカラな、パンを焼くかまどの匂いとみそ汁の匂いが両立する屋根はどのような空気に蔽われていなければならないか。そこでひきつがれる死すら幸福の一形態であるために、あまんじて受けることもまた幸福の一種であるような自己抑制とはいかなるものか。そして、宇宙との対話に物おじしない日本語を創りだす作業はどのような実践をふくまなければならないか。それらのことが一息に、滝のように、文明の波つきる東のはしで自問自答されたのだと、私は、すこし胸をつまらせながら考えます。 (初出 1982年8月10日「Chimo」)
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